STORY

マッサンの夢は、リタの夢。

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IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETSURU

新しいもの好きだった政孝は、昭和初期の頃から8ミリカメラをもち、家族をはじめ、旅の一日、ウィスキー工場の様子などの記録を残していました。夫婦として、また家族として、幸せな時間を過ごしたリタと政孝の貴重な素顔を公開します。

THE BIOGRAPHY OF RITA

  • Scottishスコットランド時代
    1896年、スコットランド中部、グラスゴー近郊の町カーカンテロフに、外科医サミュエル・キャンベル・カウンの長女として生まれたジェシー・ロベルタ・カウン(愛称リタ)は、良家の子女として育てられた。文学と音楽を愛する物静かな少女の人生は、留学生として渡英していた、黒い瞳の日本人青年との出会いによって一変する。日本人青年の名前は、竹鶴政孝。「日本で初めて、本格ウィスキーを作る」という政孝の夢を支える決意を胸に、リタは1920年に政孝と結婚。日本人女性「竹鶴リタ」として、彼女の新たな「冒険の旅」が始まった。
  • osaka大阪時代
    政孝とリタは、大阪・帝塚山で新婚時代を過ごした。不況による失業、流産など、大きな困難が次々と夫婦を襲ったが、夢の実現に向けて奔走する政孝のため、日本語を覚え、和食の作り方を覚え、一日も早く「日本の妻」になろうと献身的に尽くしたリタ。政孝のことを「マッサン」と呼ぶようになったのも、この頃である。摂津酒造(大阪)を退社し、職を失った政孝に変わって、英語やピアノ講師として働きながら、リタは家計を助けてもいた。1930年には女の子の赤ちゃんを養女として引き取り、母親として子どもを育て始める。
  • Scottish鎌倉・逗子時代
    1928年(昭和3年)寿屋勤務の頃、政孝は横浜市鶴見にあった寿屋横浜麦酒工場長を兼務し、大阪から鶴見、及び鎌倉に住まいを移した時期があった。その後、北海道余市に転居したが、晩年は逗子にも家を持った。病弱だったリタを気遣った政孝は、湘南の温暖な気候や、かかりつけの病院が近かったことで、その場所を選んだのだろう。瀬戸内海に育った政孝。そして、長い船旅で来日したリタ。ともに海が大好きだった二人は、海辺で撮影した数多くの写真を残している。想像ではあるが、リタにとって海は、遠い故郷と自分をつないでくれる存在であり、海に入ると、限りない自由に包まれたのかもしれない。鎌倉や逗子もまた、二人にとっては思い出深い場所だったに違いない。
  • YOICHI北海道(余市)時代
    独立の道を選んだ政孝は、北国の街、北海道の余市に新天地を求めた。のちのニッカウヰスキー「大日本果汁株式会社」を設立した政孝を支えるべく、妻として、母として、リタは一層、主婦業に専念していく。しかし、第二次世界大戦勃発後、戦況が厳しくなるにつれ、リタは日本とイギリス、ふたつの祖国の間で苦しむようになる。精神的にも肉体的にも、戦争はリタを確実に追い詰めた。戦後、ニッカウヰスキーの後継者として養子になった威、その子どもたちに囲まれて穏やかな晩年を過ごしたが、1961年1月、64歳で激動の生涯を閉じた。
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Rita Story
  • ROMANCE故郷を捨て、政孝の妻となったリタ。24歳と若かった彼女には、苦労の足音はまだ忍び寄ってはいない。
    当時の写真には、お互いを思いやりながら寄り添いあう、二人の日常が収められている 。
Rita Story
  • チキンブロス
  • チキンスープ
  • オックステールスープ
  • ローストビーフ
  • オードブル
  • シェパードパイ
  • クリスマスプティング
  • ゴールデン プティング
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